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ホーム » とことこタイムズ » 「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐり 第2回 “悲劇の将”の終焉の地 ~湘南に残る義経伝説~

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐり 第2回
“悲劇の将”の終焉の地 ~湘南に残る義経伝説~

2022年8月11日
この記事のテーマ:

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 ~湘南に残る義経伝説~

源頼朝の異母弟・源義経。平家との戦いに於いての華麗な戦績と、その後辿った悲劇の生涯が語り継がれ、能や歌舞伎といった伝統芸能をはじめ、軍記物、小説、映画やドラマといった大衆文化の題材としても高い人気を誇ります。
「鎌倉殿の13人」でも第7話から登場し、物語に鮮烈な華を与えました。
時代を超えて愛されてきた義経のゆかりの地には様々な伝説、逸話が残り、ここ湘南も例外ではありません。

茅ヶ崎、藤沢を中心に、義経ゆかりの地をまとめてみました。義経伝説ではお馴染みの従者・武蔵坊弁慶の名前もそこかしこに登場します!

目次

 

…始めにおさらい《義経主従》…

◆源義経 (1159~1189)

平治元(1159)年、源義朝の九男として生まれる。頼朝からは12歳下の異母弟になる。幼名は「牛若丸」。平治2(1160)年、「平治の乱」で父・義朝が敗死し、当時三歳だった牛若丸は京都の鞍馬寺に預けられる。
15歳で元服後は「義経」と名を改め、東北で大きな力を持っていた奥州藤原氏の当主・藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼り庇護を受ける。。
治承4(1180)年に兄・頼朝が挙兵すると馳せ参じ、「一ノ谷の戦い」「壇ノ浦の戦い」等で活躍し、平氏滅亡の立役者となった。しかし戦での独断専行や、頼朝に断りなく朝廷から官位を受けるなどの行動から頼朝の怒りを買い、関係が悪化。鎌倉への凱旋を拒まれ、追われる身となる。かつて身を寄せていた藤原秀衡の元へ逃げ延びるも、程なくして秀衡が病により死去。頼朝から義経追討の要請を受けた秀衡の嫡男・藤原泰衡に攻められ、義経は妻子を殺害後、自害する。享年は31歳。

◆武蔵坊弁慶(?~1189〈?〉)

義経の郎党(ろうとう=従者)であったとされる僧兵。武芸に長けた怪力無双の大男で、比叡山延暦寺を追い出された後は道行く人を襲う「刀狩り」をしていたが、ちょうど千本目というところで京都の五条大橋を通りかかった義経に出会う。いつも通り義経の刀も奪おうとするも返り討ちに。以降従者となり、義経が非業の死を遂げるその日まで、生涯忠実に仕えた…といった有名なエピソードは、実は殆どが創作によるもの。
鎌倉研究に欠かせない書物となっている「吾妻鏡」には義経の郎党として名前が出てくるのみで、出自や人物像、どんな活躍をしたのか、あるいはしていないのか。すべて謎に包まれている。
有名な歌舞伎の演目「勧進帳」での泣かせる役どころなど、義経物には欠かせない存在で、義経にも負けない高い人気を誇る。

 

【茅ヶ崎市内】

1.御霊神社(ごりょうじんじゃ)

頼朝の死因は義経の呪い!? 義経の霊を鎮める神社

相模国鎌倉を領していた鎌倉氏の武将・鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)を祭神とする神社。寺社名に冠された「御霊信仰」とは、非業の死を遂げた人は怨霊となり現世に厄災をもたらすため、これを鎮めて平穏を得ようとする信仰で、治承年間(1177~1182)、当時この地方一帯を治めていた懐島権守平景能が、御霊山西運寺(茅ヶ崎市南湖)の毘沙門堂に鎌倉権五郎景正の霊を祀り、これがその後幾多の変遷を経て、現在の姿になったといいます。(現社殿は昭和4年再建)

義経の兄、”鎌倉殿”こと源頼朝は義経の死の9年後である建久9(1198)年、同神社より西方の、現在の新湘南バイパス・茅ヶ崎西インター付近で行われた相模川の橋供養に訪れ、落馬したことが原因で死去したとされていますが、一説にはこの時義経の亡霊が現れ、頼朝は驚いて落馬したのだという言い伝えも。
里人たちは義経の怨霊を鎮めるため、同神社にその霊を合祀したと言われています。

景正、義経共に武運長久な武将だったことから、合格祈願や願掛けに訪れる参拝者も多い神社です。

住所 茅ヶ崎市南湖2-9-10
アクセス 茅ヶ崎駅南口よりバス「仲町」下車徒歩6分
地図

 

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2.弁慶塚(茅ヶ崎)

近隣住民により、代々守られてきた供養塚

源氏ゆかりの神社「鶴嶺八幡宮」の参道入口、大鳥居近くに建てられた「弁慶塚」。しっかりと「弁慶」と刻まれれていますが、塚の背後に建てられた史跡の説明看板には「(相模川の橋の落成供養に訪れた際)頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮付近にさしかかったとき、義経・行家(※)ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年1月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている」とあります。
元々にあった塚はかなり古いものだったそうなのですが、現在のものは昭和57(1982)年に地元の有志が整備・復元したもの。建立から連綿と地域の目に見守られ、その姿形を今に留めています。

※源行家(?~1186)=頼朝の叔父。甥の頼朝に平氏打倒のため挙兵を促しながらも傘下には加わらず、独立勢力として平家と交戦。頼朝との折り合いが悪化した後は木曽義仲⇒源義経と、同じく折り合いが悪い人物と組んでは対抗し続けたが遂に敵わず、逃亡の末に鎌倉幕府の追っ手に見つかり斬首された。
「鎌倉殿の13人」では杉本哲太さんが演じ、ナレーションで「ついた側が必ず負ける”死神”」と言われたりしていました。

 

住所 茅ヶ崎市浜之郷845
アクセス ・「茅ヶ崎駅」北口よりバス「町屋」停留所下車、徒歩3分
地図
備考 個人の敷地内のため、マナーを守ってご見学ください

 

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【藤沢市内のゆかりの地】

3.白旗神社


▲取材当日は例祭の日で、一際多い参拝の方の姿が。(2022.7.20)

頼朝の命で義経を祀ったという伝承が。6月13日には鎮霊祭を斎行

鎌倉時代以前より存在し、関東地方を開拓した神様、寒川比古命(さむかわひこのみこと)を祀るこちらの神社は「寒川神社」と呼ばれていました(高座郡寒川町の寒川神社と同名)。
義経を合わせ祀り「白旗神社」と名を改めたきっかけとして、義経の死後、「腰越で首実検を受けた義経の首は、同じく実検を受けた弁慶の首と共に、夜の間に同神社まで飛んできた(または「白旗川を上り辿り着いた」とも)。これを聞いた頼朝は、同神社に義経を『白旗明神』(白は源氏の旗色)として祀るようにと指示した」という伝承が。義経の首実検が行われた6月13日には毎年、「源義経公鎮霊祭」が行われています。

▲没後810年の年に斎行された鎮霊祭で建立された「源義経公霊碑」。義経の兜を象った意匠になっています。 ▲触ると健康になるご利益があるという「弁慶の力石」。その昔は神社の近くの茶屋に置かれ、近郊の農家や町内の力自慢が持ち上げて力比べしていたそうです。

 

▲境内そこかしこに義経と弁慶の姿があり、大切に祀られていることが伝わります。

 

住所 藤沢市藤沢2-4-7
アクセス 小田急江ノ島線「藤沢本町駅」徒歩7分
地図
TEL TEL0466-22-9210
URL http://www.shirahata-jinja.jp/

 

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4.荘厳寺(しょうごんじ)

義経の位牌を守る、白旗神社の別当寺

真言宗大覚寺派のお寺。創立は元暦元年(1184)年と、藤沢宿でも最も古いお寺になります。
日本では古来から神道と仏教の信仰にはっきりとした境界線はなく、むしろ密接に関わり合っていました。神社の管理のため、境内にお寺が建てられることもあり、これは「別当寺」と呼ばれます。
荘厳寺はかつて火災に遭い、白旗神社と同じ敷地内に本堂を遷して同神社の別当寺になりました。明治時代に入り、文明開化の一環として「神仏分離政策」が進められたため、現在地へと移転したといいます。

荘厳寺は、義経の位牌を安置していることでも知られています。 江戸時代、天保3年のものと伝わっており、当時から多くの伝承が伝わっていたであろうこの地で、ご住職が義経の魂を慰めたいと考えられたのかもしれません。

 

住所 藤沢市本町4-6-12
アクセス ・小田急江ノ島線「藤沢本町駅」徒歩7分
地図
TEL TEL0466-22-7345

 

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5.弁慶塚(藤沢)

山中にひっそりと佇み、主を見守る小さな祠

旧東海道から細道に入った先の山のふもとに多数の庚申塔が並び、唯一小さな祠の中に鎮座しているのが「弁慶塚」です。江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」にある「八王子社は弁慶の首塚があった所に建てられた。首塚は既に廃されている」という記述より、かつては弁慶を祀った八王子社があったとされています。
義経首洗い井戸、白旗神社がある方角を向けて建てられており、今も尚、主を見守っているかのようです。

▲周辺は古木が多く、藤沢宿の名残を残すとして藤沢市指定天然記念物となっている ▲多数の庚申塔

 

住所 神奈川県藤沢市藤沢本町4丁目5-21
アクセス ・小田急江ノ島線「藤沢本町駅」徒歩7分
※少しわかりづらい場所にあります。旧東海道(国道467号線)より「JAさがみ」または「済美館」脇道から道沿いに歩いていくと山に入る道が見つかります
地図
備考 夏場は蚊の巣窟です! 対策をお忘れなく。

 

 

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6.義経首洗井戸

義経の首を洗い清めた伝説の井戸

腰越で首実検を終えた義経の首は浜に打ち捨てられ、潮に乗って川を遡り、この近辺へ漂着。発見した里人がすくい上げ、この井戸で洗い清めたとの伝承が。藤沢に流れ着いた御首は白旗神社に祀られ、同神社の「源義経公霊碑」には御首の霊と宮城県栗原市の判官森に葬られた御骸の霊とが合祀されています。

井戸の傍らの義経首塚には真新しい花が生けられていました。

 

住所 藤沢市藤沢2-1-10
アクセス ・小田急江ノ島線「藤沢本町駅」徒歩4分
※旧東海道(国道467号線)よりかながわ信用金庫とマンションの間の小道を入ってすぐ
地図

 

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【鎌倉市内のゆかりの地】

7.満福寺(まんぷくじ)

義経が自らの信条と潔白を綴る「腰越状」を書いた寺

平家打倒のための遠征先・京都で頼朝の勘気に触れ、鎌倉への凱旋を許されなかった義経は鎌倉郊外の満福寺に留め置かれました。この時満福寺で自らの心情を訴え、頼朝へ取り次いでもらえるようにと、頼朝の側近・大江広元に対して書いた書状が有名な「腰越状」です。


▲同寺にはなんと弁慶代筆による腰越状の草案と伝わる書状が展示されています。後で義経が「不顧為敵亡命」の6文字を文面に加筆することとしたため、こちらは実際には使用せず同寺に残ったのだとか。

▲境内には腰越状をしたためる弁慶と義経主従の像が。正直可愛いと思ってしまいましたが、当人らは苦境にあって表情は真剣そのものです。

 

▲弁慶ゆかりのものと伝わる品が数多く残っています。写真左は弁慶が所有したという椀。

 

腰越状は勘気を受け、鎌倉入りを許されないことへの悲しみと信じてもらえない悔しさに始まり、自身の出生と平家の目を逃れ隠れ住む日々、そこから頼朝の軍に加わりどれだけ身を投げ打って戦ってきたか、「すべては亡き父の魂をなぐさめるため。二心はありません」と訴えています。そして末尾には、「どうか頼朝様にこの気持ちをお伝えいただきたい。そうしていただけたなら、長年の憂鬱は晴れ、心にひと時の安らぎを得ることができるでしょう。(後略)」と心境を綴っています。

社務所では同寺に伝わる腰越状草案の写しとわかりやすい言葉で書かれた現代語訳も売っているので、ご興味のある方はぜひお手に取ってみてはいかがでしょうか。

 

住所 鎌倉市腰越2-4-8
アクセス ・江ノ島電鉄「腰越駅」下車徒歩3分
地図
開門・閉門時間 9時~17時
拝観料 大人200円、中学生100円、小学生以下無料
TEL TEL0466-22-7345
URL http://www.manpuku-ji.net/

 

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8.腰越海岸

義経の首実検が行われた、夏の日を偲ぶ

満福寺から南へ歩を進めると、腰越の海に出ます。義経の死から一月が経った文治5(1189)年6月13日、奥州からの使者が到着し、腰越の浜で義経の首実検が行われました。立ち会ったのは和田義盛と梶原景時。騎馬を連れ武装した部下をそれぞれ20騎同行させていたといいます。
「実検の様子を見ていた人々は、誰もが涙で袖を濡らしていた」と吾妻鏡は記しています。
西暦に直すとこの日は7月29日。夏の盛り、首は漆の箱に酒漬けの状態で届けられたそうです。すっかり変わり果ててしまったかつての味方、齢31の若者の姿に誰もが涙を禁じ得なかったのも、無理からぬことのように思えます。

住所 鎌倉市腰越2-9
アクセス ・江ノ島電鉄「腰越駅」徒歩3分
地図

 

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首実検後の義経の首級のなりゆきは明らかになっていません。「鎌倉殿の13人」の様に頼朝が首に相対し涙した…かどうかはわかりませんが、敵対していたとはいえ、頼朝の弟であった義経の首を”うち捨てた”というのもあまりにやるせない、せめて弔いはしたのではとも思います。

吾妻鏡によれば、義経が自刃した折、鎌倉では頼朝が亡き母を供養する為の五重塔を造成していました。落成の式典の日取りも決まっていましたが、身内の死という穢れが生じてしまったために延期の連絡を京へと送った、という記述があります。しかし既に関係者も出発しており延期は出来ず、頼朝は神殿には入らないで外から儀式を眺めていたといいます。
こうした事情もあって頼朝は義経の首を鎌倉へと持ってこないように命じていたため、奥州での自刃から腰越に首が届くまでおよそ一月もの時間が経過していました。
死した後にも鎌倉に戻ることを拒まれてしまったというのは、悲しい運命のいたずらでしょうか。

伝承は「川を遡った」「夜のうちに寺まで飛んできた」など、かなり大胆で荒唐無稽にも思えます。
多少の強引さを伴ってでも、義経がその境遇を憐れみ、弔ってくれる場所へとたどり着き、安らぎを得たと信じたいという思いからこうした話が生まれ、語り継がれてきたのかもしれません。

 

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